特別支援教育19 「わかる」ということ

特別支援教育19 「わかる」ということ

 ちょっと前に若い先生ら二人とお話させてもらう機会がありました。

 なかなか楽しかったです。若い女の先生らだったから楽しかった?。というところもまったくないとも言い切れない・・。

 ですが、お仕事の話をガチガチとしている時は、かんで話ができるかどうかが問題で、性別とか年齢とか、ほとんど関係ないですね。

 例によって、医療的ケアを含む肢体不自由・重度重複の子どもたちのことが中心で、前の学校でまとめた冊子用の原稿をもとにしての話でしたが。

 で、あらためて思ったのは、結局、大事なことは「わかる」ということだなと。

 「わかる」の内容とか意味というのは、発達段階とか障害によって当然色々なことがあるわけですが。

 ちょっと前から、何か「できる」こと、あるいは逆に「○○しないこと」というのが、指導、あるいは支援のねらいとして強調されることが多くなったように思います。

 例えば、日常生活上非常に困ることがあったり、これができるようになるといいなぁということがあったりすると「できる」あるいは「しない」ことというのは、それはねらい、目標として重要になるし、様々なアプローチでそれを達成しようとするということが重要になるのはよくわかります。

 ですが、それがどうしてできるようになったのか、あるいはしないようになったのかという意味なり背景の考察がないと、それは実はちゃんとした評価にならない。

 「できる」「しない」というねらいそのものが達成できなかったとしても、どうしてそうだったのかの分析、考察をしてみれば、そこにはいろんな意味が含まれている場合が結構ある。

 こうした視点が充分に持てずに「できたら○」「できなかったから☓」、そういうのは適切な評価とは言いがたい。

 で、こうした考察を深めていくことは、つまりは「どうわかったのか」「どうわからなかったのか」「どこまでわかったのか」、それはどうしてか、ということを考えることになる。

 「わかる」ということは、つまりは、自分の身の回りの世界の意味を変容していくということにつながるでしょう。
 はさみがある。使い方がわからなかった時は、これはなんだかしらないけど、尖った硬いものにすぎない。それが、紙を切る道具として使えるようになる。それは、目の前にある物の意味が変わったということで、大げさに言えば「世界が変わった」ということにつながる。

 学校教育、別に学校教育に限らないけど、の目的とか意味ということの根のところには、それぞれの子どもの状況、段階に応じて、この「わかる」ことを広げていくことがある。

 そのさらに根本には「何をわからせたいのか」ということ、大事にしたいことはなんなのかという理念なり原則なりがある。もちろん、それは、杓子定規なものではなくて、個々の子どもによって違うものだろうと思いますが。

 こうした事を考えることなしに表面的に「できる」「できる」ことのみを求めていくと、何か大事なことから大きくずれたことをしてしまうリスクというのがあるように思います。

 話をしていて、というようなことをあらためて感じたりしていました。

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