特別支援教育 29 将来像を見通す
特別支援教育 29 将来像を見通す
個別の指導計画を書く時に、アセスメント表とかいうことで、どうも私はこの「アセスメント」という言葉がなじまないところがあるのですが、子どもの実態を整理して書きますよね。
同時に、長期目標とか短期目標も書いたりします。
この時、どうこれを書くか?。ただ、書いておけばいい、埋めておけばいいというものでは当然ないんで・・。
しかし、どうもこの個別の指導計画というのが形式的というか実際は日常的にはほとんど意識されないものになっていることがあるような気がしますが。
でも、それではもったいないというか、費やした労力に比例する程度には役立つものであってほしいと思います。
まあ、そんな細かい部分まで一々全部覚えていてどうこうするということはないでしょうけど、やはり、前に書いたと思いますが、その子の「全体像と課題」をしっかりととらえて、それを日常の実践でも常に意識しておくようにしたいものだと思います。
で、長期目標と短期目標ですが、これ、長期目標の方は漠然としたものになりやすく、同時に短期目標の方は、なにか細かい「できる「できる」の羅列になりやすいところがないでしょうか。
これも前に書いたけど、「できる」というより「わかる」という視点を重視してほしいものだと思います。
長期目標の方は意識するのは「将来像を見通す」という視点です。
子どもらは学校を卒業し、社会、地域で生きていくことになります。
12年の学校生活の卒業をひかえた高等部の生徒であればもちろんのこと、中学部、あるいは小学部であっても、将来、その子がどんな場で、誰と、どのように過ごすのか、そのイメージ、それはできればこうあってほしいというものと実際の今の社会の中で可能なのはこのようなことだろうというのと、両面あると思いますが、
それを具体的にはっきりとイメージできるようにしておくこと。
こういうことは社会の状況、様々なハード面、ソフト面の環境の変化によって、大きく変化します。全体としてそれはいい方向に進んでいるのでしょうか?。そう言える面もあれば逆に厳しいという面もあり、ケース・バイ・ケースかと思いますが。
で、だったら、子どもらにはこんな力をつけてほしい、こんな経験をしてほしい、逆にこういう点は変わっていってほしい、そういういろんな願いというのが出てくるはずです。
学校だけ、他の場とは違う独立した形で、その子に力をつけたらいいんだ、というのは違います。
逆は、将来こうだから、そのための「練習」を学校にいる間に一生懸命にすればいいんだ、この発想が強くなりすぎると、学校の基本的なあり方が極端に言えば「練習場」になってしまう。これはどうなのか?。違うのではないか?。
つまり、将来を見通した上でこんな力をつけてほしい、こんな経験を広げてほしい、そういう願い、これが長期目標としてわかりやすく整理されているといい、それをもとにして、学校の授業として、なにをどう設定し、ねらいとして取り組むのか、それを吟味して教育課程を編成することが大事。そこにはやはり「文化」という視点が重要になるだろうと思います。
これも、書いたら「それはそうですね」ということになるかもしれないけれど、本当に一人一人に合った形で、今、手元のある条件の中でよりベターな形を追い求めながら、教育課程や授業実践を作っていくというのは、まあ、実に大変だろうとは思いますが。
しかし、こういうことを意識していたら、「おおはずれ」、なにか子どもにとってあまり意味がないようなことに必死になるような誤りというのは犯さずにすむように思います。