「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 2

希望でみちびく科学
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第三章 自閉症児の教育
 全体としての主旨はよくわかります。

 私自身は自閉症の子どもらの実践に直接携わった経験が乏しく、基本的な知識も指導方法についての理解も極めて不十分なものしかないて゜す・。

 が、肢体不自由の子どもであろうが、自閉症の子どもであろうが、基本的な考え方の部分は共通しているでしょう。
 つまりは、「全体像と課題」を大きな誤りなくしっかりとらえ、それに沿った形で教育活動を展開し、教育課程を組織することが重要だということです。

 しかし、印象として、肢体不自由の子どもたちの教育よりも自閉症の子どもたちの教育の方が、その考え方や具体的内容、指導方法についての見解の違いが「先鋭化」しやすいという印象があります。

 なんでかね?。

 体調面の不安定さが状態である医療的ケア対応を含む重度重複障害の子どもたちにとって、体調の安定が様々な活動の前提になるのと同様に、自閉症の子どもたちにとっては適切な環境の整理が様々な活動の前提となる場合というのはあると思います。
 ただ、その「前提」のところでとどまっていて、そこからの課題というのがなんなのかがうまく整理できず、取り組み自体も組織化されにくいという場合がないでしょうか。
 ちょっとこのあたりは実感としてはよくわからないところ。

 本書の94ページ。
 『「社会性の学習」の名の下に、「社会性の発達」ではなく、「社会的適応行動の習得」が自閉症教育に持ちこまれている。能力主義的な生存競争が激しくなればなるほど、「社会適応」の価値は高く見積もられる。「自閉症の特性の尊重」が「社会適応」をめざすだけで、しかも急いで結果を出すことに努力が傾注されるようでは、教育実践は砂を噛むような味気ないものに変質していくだろう。」

とあります。

 著者の問題意識はよくわかります。

 ただ、本来、「社会性の発達」と「社会的適応行動の習得」は対立することではない。一方が重視されて一方がなおざりれにされるというような関係ではないはずです。

 個々の子どもにとっての現実の課題として、様々な、あるいは非常に困難な「問題行動」があり、それが日常生活の上で大きな支障がある場合、そこへの対応をまず第一の優先して対処すべき課題として考えるのは当然のこととも言えます。

 ただ、そのことのみを追求する、しかも、それが子どもらの実態をしっかりととらえ、個々の子どもに合った取り組み方が検討される以前に、特定の考え方や特定の方法論を優先して持ち込むようなことがあったとすれば、それは誤りであると言わざるを得ないし、
そのことのみで事足れりとするうようなことがあれば、それは教育の価値をわい小化してしまうことにならないかなと思います。

 自閉症の子どもらとしばらく付き合っていると、その実態や課題というのは私のような不十分な経験なり理解の不十分さがあったとしても、次第に明らかに見えてくるところがあります。

 が、私自身は「じゃあ、どうする?」という、その次の具体的な取り組みやその方法については、まともな提案がなかなかできません。
 
 なので、感じとしては、なかなかものが言いにくいなぁというところがあります。

 前回、ブログでコメントしたことを著者にメールしましたら(鳥取大学のサイトにメールアドレスがあったので)、すぐに返信をいただき、恐縮しました。
 
 また続きを書きます。

  

 

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