「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 3
「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 3
一応、通読しました。
その上でもう一度読み返しています。
第四章 教育目標、教育評価論
1 重症心身障害児の教育をどうとらえるか
ここのところは、自分自身が長く「重症心身障害児」と言われる子どもたち(言葉としてはあまり好きではないけど)と関わってきたので、感覚としてはよくわかります。
集団指導体制への批判、教育目標の「客観化」、教育形態の個別化などについては、京都で、もう随分以前からあちこちで言われてきています。
25年ぐらい前には「集団指導体制への批判」はもういっぱいありましたから。
集団指導体制について。
集団指導体制については、その批判の基本は、いわば「無責任」体制だというわけです。
そうだろうか?。クラスの指導を教師集団でしていたら、それはその形をとることで、子どもに対する責任が拡散してしまうでしょうか。
そんな馬鹿なことはないわけでね。
むしろ、集団指導体制を生かすことが求められているわけです。
個々の児童・生徒の指導について、誰が責任を持つのかということは明確にしておく必要があります。
多くは個別の指導計画を中心になって作成する担任がそれにあたるでしょう。
同じクラスの中でも、A君とB君はC先生が、D君とEさんはF先生が中心的な担当になるというのは普通です。
ですが、その中心的な担当になる先生に、なにもかもまかせるような形ではなく、集団指導体制の中で、それぞれの子どもたちのの実態や課題、評価について複数の目で意見を出し合い、事実に近づくようにしていくことが適当です。
一人の担任だけがなんでもするよりも、対等の立場で様々な意見、見方が出される方がいいに決まっていると私は経験的にも思います。
個々の教員の経験や力量には当然、差があります。そうした場合、集団指導体制をとっている中で、特定の「できる」教員に負担が集中するような傾向になる場合があります。これが極端になると、なかなかしんどい状況が生じたりすることも現実としてあります。
が、個々の教員のキャラクター、得意なこと、苦手なこと、様々な条件などを考慮しつつ生かし、その中でよりベターな形を追求していくことの方が、単純な「個人責任」的な役割分担よりも優れた教育実践をつくっていくことにつながると思います。
このことは、極端に「誤った」教育実践を避けることができるというメリットもあります。
その形は可能な様々な条件の中での具体的な「人」によって決まるので、あらかじめ、「こうするのがよい」と画一的に規定することは適当ではありません。
逆に、あらかじめ、同じクラスの子どもたちとを指導するのに「担任」と「副担」を決めて、主たる仕事、責任は「担任」が担い、「副担」は周辺の補助的な仕事をするような役割分担は、一見、明快でわかりやすいようでいて、「担任」「副担」双方にとって教員としての幅広い経験や成長を阻害することにつながる場合があると思います。
(同時に場合によっては集団指導体制の中でも前述したような問題点が生じることはあります)。
とりわけ、若い教員の場合は、あまり年齢だけで云々するのもどうかというところもありますが、組織の中で細分化された特定の分野の専門的な役割を担うというよりは、幅広い仕事を(できれば、障害種別についても異なった実態の子どもたちの教育を担当することも含めて)経験してほしいと思います。
それがその後に生きるところはかなりある。その上で、個々の教員の専門性なり興味・関心なり、志向性によって、より適切な仕事内容を担当するようにしていくのがいいと思います。