「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 5

「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 5

 第四章では、京都市の養護学校の事例も取り上げられています。

 京都市の養護学校の研究発表については私自身も聞きに行かせてもらいました。

 その率直な感想を言えば「なんと、まあ、わかりにくくて、ややこしい」ということでした。

 「右回りスパイラル構造仮説」と、まあ、この言葉がもうわからんのだけれど、教育課程そのものが非常に複雑になっているなぁと感じるところがありました。

 まず、クラスは学年制です。学年制そのものがいいかわるいかは一概には言えません。

 相当の児童・生徒数があり、学年制にしても、それなりに障害や発達の状況に即した基礎集団の編成というのが可能であれば、これは別に日常的な教育課程の編成にそんなに「悪影響」は及ぼさないかもしれません。

 また、小学部段階でも、生活年齢への配慮は必要な部分があり、できれば、いくら発達・障害の実態が似通っているとしても、小学部に入学したばかりの児童と卒業をひかえた6年の児童はできれば基礎集団は違っていた方がいいとも思います。

 が、クラスを学年制にすることを画一的にすすめるとどういうことになるか。

 重度の肢体不自由の児童・生徒と自閉性障害の児童・生徒の教育目標や具体的な教育内容は当然異なります。

 となると、実際の授業は、授業ごとに比較的課題か近い児童・生徒の集団をつくってすすめるということにならざるをえない。

 あるいは、教員がつけるのであれば、個別の指導形態をとるかです。

 となると、それぞれの授業ごとでそこの指導を担当する教員というのは当然固定しなければいけません。

 ということは、そのクラスの担任であっても、その子の様子を直接見られない、指導にあたれない時間が多くなるということにもなります。

 なにも、必ずベターッと1日、特定の教員が特定の児童・生徒の担当をしなければならないということはありません(ある時期にはそうしたことが必要というか、した方がいいと思われる場合、あるいはそうした児童・生徒もあるとは思いますが)>

しかし、とりわけ「重度」の子どもたちの場合は、相当程度、クラス担任か直接指導にあたる時間というのが中心になっていた方が、様々な意味で適切だろうと思います。

 いわば、中学校の教科のように、授業ごとに教員が異なるような教育課程のあり方というのは、時間割がどうこうということも含めて、ちょっと様々な意味で大変さがあるだろう、もっと率直に言ってしまえばよくないだろうと私自身は思います。

 

 さて、本書の中で、「重度」の子どもらの授業具体的な一週間の授業についての説明があります。

 本書の中でふれられている事例は曜日によって取り組む内容が異なる形になっています。

 なかなか一般化して言うことは難しいなと思うのですが、ザックリした言い方で言えば「乳児期前半」あるいは「乳児期前半から後半」の発達課題を持つ子どもたちについては、
私はこうした曜日により取り組む内容が異なる授業の設定よりは、一週間の中で例えば4回などの回数、基本的に同じ展開の授業を繰り返す、そして、それを相当程度、例えば3週間とか4週間とか、繰り返す形というのもある、そのメリットというのもあると思っています。

 どちらかといえば、この方がいいのではないかとも思います。

 これが乳児期後半から1歳半となると、曜日によって異なった授業を行う形でもいいと思うのですが。

 ただ、曜日ごとに授業が違っているとしても、その各曜日の授業そのものは、毎回毎回違った中味ではなく一定の定まった内容(無論、実際に授業をしながらその内容は少しずつよいと思う方へ改善していくのですが)を繰り返す形となっているのが普通でしょう。
 これは「縦に帯」状の授業の設定。一定期間、連続して同じ授業を継続していくのは「横に帯」の設定。このあたりは、子どもの実態に即して、どういう形がいいのか、検討、工夫がいると思います。

 また、授業をどういうものとして整理するかというのもなかなか難しい。

 本書では「からだ」「しぜん」「みる・きく・はなす」「ふれる・えがく・つくる」「小学部全体音楽」という具体例が示されています。
 月から金、3時間目の授業として設定されているものです。

 こうした整理のしかたというのは各学校によりいろんな違いがあります。それは、それぞれの学校のハード面、ソフト面等の様々な教育条件によって規定されているところもありますし、また、それぞれの学校での検討、研究の経過の中で整理がされてきたところもあります。

 なので、そのような条件の違いや研究の背景の違いがある、またそれらを学習指導要領上どう位置づけるかというのにも違いがある中で、うまく噛み合った実りのある議論というのをするというのはなかなか難しいです。

 というか、私自身がうまく整理ができなかったので、研究会などでは、こうした議論は「それはちょっとおいといて」と避けていました。

 まあ、こうした授業の位置づけは異なっていても、実際の授業そのものは(少なくとも一見は)似通ったものになる場合が多いようには思うのですが。

 

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