「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 6

「楽しさを味わう」という授業の目標について、本書では以下のように書かれていました。

P143
「本来、「楽しさを味わう」という授業の目標は決して不適切なものではない。

授業における「楽しさ」の感情体験は何かが「分かる」という知的活動と結びついているはずであり、
知的活動と情意的活動の統合的な目標として正当に位置づけられるべきである。

その際、「楽しさ」という言葉がスローガン的に無限定に使用されたり、情緒的であいまいな印象を残すことがないように、
授業の何が分かり、なにを楽しいと感じるのか、それは子どもの発達的力量とどのように関連するのかについて精細な検討を経る必要があろう。

 「楽しさ」という教育目標については、その内実を深め、題材との関連を正しく位置づけることによって、授業の豊かさをもたらすものである。

子どもの内面的世界を表現する用語を、まるで言葉狩りのように排斥することは、教育研究への熱意を枯渇させるものでしかない。」

 実にそうですね、そうでしょう。

 以下の文章は5月にこのブログに書いた内容です。問題意識としてかなり重なる部分が多いと思いました。長いけどもう一度。
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 個別の指導計画で詳細の指導のねらいや手立てを記載するようになって、そこに「楽しむ」というねらいを書くと、
「楽しむ」というのはねらいとしては適切ではないからということで、書き直しの指導や指示がされる場合があったと聞きます。

 私自身のことではなく伝聞で、現状がどのようになっているかはわかりませんが。

 どうなんでしょうね。「楽しむ」というのは、ねらいとしては適切ではないのでしょうか。

 結論から言えば「楽しむ」というのはねらいとして適切ではないどころか、特別支援学校における極めて重要なねらいの中心の一つなのではないでしょうか。

 学校が楽しくなくてどうする?、学校生活が楽しいものでなくてどうするのでしょうか?。

 学校というのは、何か厳しい訓練だか練習だかを黙々とやって、その取り組んでいることができるようになったらそれでいいのでしょうか?。それがねらいの中心なのか?。

 じゃあ、毎日、何か楽しいことばかりをして、ニコニコ笑って過ごせたら、それでいいの?。それで「楽しむ」ということが達成されていたらいいの?。

 と、まあ、わざと極論というか、単純化させて書きましたが。

 つまりは「楽しむ」というのは、基本的にとても大切なねらいであり、視点であり、大事にしなければいけないことである。だから、ねらいとして極めて重要である。

 だけど、個々の子どもたちにとって、ただ「楽しむ」というねらいを達成して、評価が「楽しめた」、これでは中味、意味が全然わからない。

 じゃあ、どうするかというと、個々の子ども、その子どもにとって「楽しむ」というのはどういうことなのか?。その中味、内容はなんなのかということをまず考え、
次の、ある授業で「楽しむ」というねらいを設定するのであれば、その授業の中でその子にとって「楽しむ」というのはどんなことなのかを具体的にし、
当然、それにそった具体的な内容が設定されていなければなない。

 そうじゃなかったら「楽しむ」というねらいは、ねらいとしては適切ではなくなってしまいます。

 例えば、まず、強い緊張が入ったり、泣くことが続いたり、深く寝てしまったりして、なかなかいろいろなはたらきかけをゆったりと受け止められないことか多い子どもさんだったら、まず適度に覚醒し落ち着いた状態で様々なはたらきかけをうけとめてほしいわけですね。

 それが、この子どもにとっての「楽しむ」ということ。

 だったら、それは「楽しむ」ではなくて、その授業の中で、あるいは日課の中で取り組んでいることそのものをねらいとして記述したらいいやん。

 いや、それでもいいのですけど、というか、、その授業では具体的にはそうなるのですけど、そうして落ち着いてはたらきかけを受け止めるところから、
この子に「これが心地いい」「これが緊張せずに受け止められる。」「これが面白い。」「これが好き。」っていうところに広げていきたい、そういうふうに進めていきたいわけです。

 で、そういうものが確立とまではいかなくても、そうした芽が見えてきたら、それはやはりその子にとっての「楽しむ」ということになるだろうと。

 だから、大きな意味で「楽しむ」というのはねらいとしては、はずせないというか、、基本的に大事にする点なのですよ、となるわけです。

後略

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