「伸びた」「落ち着いた」と感じることの中味、本質とはなんだろう?
年明けから前年度の後半にも行かせてもらっていた現場でまた少し仕事をさせてもらっています。
入っているのが、前年度にも関わった子どもらが多く残っているクラスだったりします。
5人中4人が去年と同じクラス、1名は転入生です。
で、この4名、それぞれ個々に中味は違いますが、前年度との比較では、いずれも「伸びた」「落ち着いた」というように感じるのです。
では、この「伸びた」「落ち着いた」と感じることの中味、本質とはいったいなんなのでしょうか。
人の発達というのは、だらだらと緩やかな坂を登っていくようなものではなく、ある一時期に、グッと一段階段を踏みあがるように、
より高い段階へと力を伸ばしていくようなことがあるというのは、よく言われます。
確かにそれはそうかなと思うところがあります。
それは、とりわけ、幼児期の発達段階において、顕著に見られるように感じられます。
今回の私自身の感覚もこれに近いところがあります。
ある一人の児童について、私は「間がずいぶんと取れるようになったな」ということをいろんな場面、状況の中で感じました。
逆に言えば、具体的ないろんな場面、状況の中で共通してこのにように感じることが多かったため、全体として、こういう印象が強くなったのでしょう。
それは、例えば、太鼓のバチで太鼓を叩くのだけど、少し叩いてすぐにバチを投げてしまうのではなく、しばらく持ち続けて、少し叩かない時間があってまた叩き出すというようなこと。
食事の時にスプーンを握って、一度それを口に運んでも離したり、放り投げたりせずに、何度も口に運ぶというようなこと。
教室から外に出る時は必ずドアに貼ってあるカードを取って人に渡し、笑顔で教室内のいる人に手を振ってから出発すること。
自分からスッと姿勢保持のための椅子の方に足を向けて腰掛ける時があること。
等々。
他にも色々あるのですが、
これらは、どういうことと関係しているかというと、それは「つもり、見通し、イメージ、場の理解」というようなことですね。
それも、単一の事象というよりも、それらが複合的に組み合わさった、それは活動の中味であったり、場所であったり、誰とどうするということであったり、色々ですが、こととして、理解できてきており、それに伴って行動そのものがかなり大きく変わってきているという感じなのです。
つまり「わかった」、あるいは「わかり方が深まった」というような印象なのです。
じゃあ、どうしたら、どうしたから「わかった」、あるいは「わかり方が深まった」ということになったのでしょうか。
これは単に年齢を重ねたからということでなく、やはり一定、相応に整理された日課の中で、繰り返し、同じ場面や状況の中での経験を積み重ね、そこに指導者が相応の意図を持っての指導を継続するということがあり、
その中で児童自身がそもそも持っていた力が「わかる」力が具体的な活動、行動として表現されるようになってきたということだと思います。これは今年度のクラスの中で取り組まれてきた「支援」(だか「指導」だか)の大きな成果だと思います。
一度、こういう方向、いい方向への変化が生み出されると、それは継続してそうした方向へ動き続け、その力がより広がったり強くなったりすることもよく見られる、経験してきているところです。
さて、ここからさらに学年を重ね、学部も変わる中で、子どもらはさらにどんな成長を見せてくれるのでしょうか。
必ずしも、環境の変化がいい方向への影響をもたらすとばかりも言えないのがになかなか難しいところですが・・・。
いわゆる乳児期段階、一歳半未満のところの重度の肢体不自由の障害のある児童生徒の場合、このようなはっきりと目に見えてわかるような劇的な変化に出会うということはあまりありません。私自身はこうした子どもらの担当をさせてもらうことの方が多かったです。
が、実は、こうした段階の子どもたちにも、その段階、あるいは個々の子どもらの実態に合った形での「つもり、見通し、イメージ、場の理解」ということは、非常に大きな教育上の課題、多くはそれは中心的な課題になるものだと思います。
反対に言えば、重度の子どもたちにも、どうこのあたりの事を教育課題という具体的に焦点化し、教材化し、また指導の中で配慮していくことができるのかというのが、私たちに問われていることです。
またつづきを書きます。