研究授業を見る 全教育課程を通してのねらいとその授業のねらい

 久しぶりに、1時間通して授業を見せてもらいました。

 新任の先生の校内の研究授業でした。もう年度末も近いからそろそろ最後でしょうか。
 年間、何度か設定しなければいけないようですが。その時間、うまくこなすことよりも、後につながる、自分の中で印象に残る授業になればいいなと思います。

 見せてもらってなかなか楽しかったですが、やはり私自身が主に携わってきた重度の肢体不自由の子どもたちの授業とは、授業の設定の仕方が色々な面で違います。まあ、それは子どもの実態が違うのですから当然のことですが。

 と同時に、事後研の中の話を聞いていて感じたのは、個々それぞれの児童の中心的なねらいはどうしたら達成されるのだろうかということです。

 実は、それが本質的な中味を含む中心的なねらいであったとするならば、それは単に一つの授業とか時間とかいうことではなくて、教育課程全体を通して意識され達成されるべきものだろうということです。

 例えば、それは、朝の会だったり、帰りの会だったり、もちろんクラスの授業だったり、時には「遠足」に向けての事前の取り組みと当日の取り組みと事後の取り組みだったり、まあ、それは全場面でということですね。

 では、設定された授業のねらいは、個人の中心的なねらいと同じものになるかといえば、それは当然関連するところはあるだろうけれども、必ずしもイコールにならない場合もある、イコールにならなくてもいい、その授業としての独自のねらいというものがあっていいというか、当然あるはずです。

 色々思いはたくさんあるのだけれども、ここらの関係というのがうまく整理されないと、実際の授業の中での中心的なねらいとか活動というもののピントがボケてしまって、うまくズバッと焦点化できないこともある、そんなことを思いました。

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