「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 7
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p150
教育目標に「分かる」を位置づける
という内容があります。
これも、「そうでしょう、そうなんですよ。」という感じ。
もう15年以上も前になると思いますが、重心児の教育課程の検討をしている中で、このことを考えていました。
当時いた学校は重心児の授業は「みる・きく・はなす」「ふれる・えがく・つくる」「からだ」「うた・リズム」という4つの「教科」を設定していました。
「」つきで「教科」としているのは、学習指導要領などで規定された一般的な教科ということではなく、学校としての独自の整理という意味です。
当時おられたベテランの先生に、この「教科」の意味を聞いたことがあったのですが、その時の答えは「それは重度の子どもたちでも人として発達していく道筋というものにそって授業を設定するのがよいだろうということ」と教えてもらいました。よく覚えてないけど、だいたいこのようなこと。
どういうことかというと、人が人たる特徴というのは、「言語によるコミュニケーション」「道具の使用」「直立二足歩行」だというわけ。
で、そのそれぞれに対応する学習内容、直接、このことそのものではなくても、それにつながるようなことを系統的に整理したものが、それぞれ「みる・きく・はなす」「ふれる・えがく・つくる」「からだ」という「教科」なんだと。
じゃあ、「うた・リズム」はどうなの?。これだけちょっと違いますよね。
それは「文化」ということに関係するんだと言われました。
言語に関係することだと文学とかお芝居とか、道具の使用だといろんな物をつくることとか創作的な芸術とか、からだの面ではスポーツ、「うた・リズム」は、言語と関係するけどもそれだけでは区分いきれない独自の文化だから、それは「教科」として整理することができる。
まあ、ちょっとこじつけという気がしないでもないけど、なるほどなぁと思った記憶があります。
で、校内でこの「みる・きく・はなす」「ふれる・えがく・つくる」「からだ」「うた・リズム」の指導のねらいは、障害や発達の段階に沿ってどのように整理していったらいいんだろうかということをいろいろ検討していたのです。
その中で、どうも、この細分化して整理したねらいの以前、以前というか、どこでも共通するねらいとして「わかる」ということがあるのではないか?、その「わかる」はどんな重度の子にも、その子なりの「わかる」ということがあるだろう。
だったら、「わかる」ということでのねらいの整理ということも可能なのではないか・・、といったことを論議し考えたのです。
私はこれを、どんな授業でも共通して成立するねらいという意味で「『わかる』ベース論」と勝手に呼んでおりました。
この考え方そのものは今でも有効だろうと思っています。
三木先生の本のコメントを書くつもりが、どうも、本の内容から色々思い出したことや関連したことを勝手に書くようなことになってしまいました。
また先生にメールしておきたいと思います。
あ、面白そうだな思ったら、本、買ってください。アフェリエイトになってますので(^_^;)。