京都教育センター研究集会・障害児教育分科会 2

京都教育センター研究集会・障害児教育分科会 2

 午後は、ベテランの先生が司会、若い先生3人がパネラーになってのバネルディスカッションのような企画。

 これがなかなか面白くて、若い先生らの率直な悩みや喜びが語られていました。

 基本的には、その悩みや喜びというのは自分自身が経験してきたそれと本質的には変わるところはないと思いました。

 違うのは、私自身が若い頃には、常に周囲にベテランの先生らがいて、そこから様々なこと、時には反面教師的ない身も含めてですが、を学ぶことができたということ。

 今は、職場にもよりますが、いわゆる「団塊の世代」の人たちがどんどん退職をしていき、ベテラン勢が少なくなっている。
 そうした人たち管理職としての立場を優先しなければいけなかったりする場合もあります。

 自分自身はそれよりも一回り近く若い世代にはなるのだけれど、とりあえず退職させてもらうということで、広く自分の経験、拙いものではあっても、を伝えていくという役割を充分にすることができませんでした。
今からでも全くできないかといえば、そうでもないところもありますが。

 最後が鳥取大学の三木裕和先生の講演。

 三木先生は長く兵庫県の養護学校、特別支援学校の先生をされており、今も兵庫県での現職なのかと思っていましたが、大学の方にかわられていたのですね。知らなかったがな。

 既にお話は複数回聞かせていただいたことがあります。重度の子どもらの担当を長くされていたということもあり、そのお話の内容は共感できるところがとても多いです。

 また、話し方が、ちょっとした小ボケもかましながら、楽しく、明るく話されます。

 問題意識として、今は教育目標、教育評価についてまとめておられるということでした。

 その前提として、最近の個別の指導計画においては、客観的な教育目標、測定可能な目標、数値目標、「できる、できない」といったことが強調されるところがあり、それに対する反論をしっかりとしていきたいということがあるそうです。

 私自身はこのことは、つまりは「学校とはどういう場所なのか」という本質と深く関わってこざるをえない大きな問題、課題であると思います。

 また、結局は、その教育目標、指導のねらいが、どれだけその子どもにとって重要な、本質的な中味となっているかが鋭く問われることにもなると思います。

 「行動の変容」そのものがその子にとって非常に重要な課題になる場合は当然あるでしょう。
 しかし、それだけか?。単純に「できた」「できない」という表面上の行動をとらえる以前のところで、なぜそうなのか?、また、どうできているのか、できていないのか?その意味が問われなければならない。そうでなければ、その「評価」とやらは単に上っ面をなでただけの薄っぺらなものに終わってしまい、次につながっていかないのではないかと思います。

 やはり、「できる」「できない」の前提として「わかる」っていうことがある。
 「わかる」中味はそれぞれに違いますけど。
 
 学校という場の本質の一つは、これだけではないけど「わかる」ための場所だと思います。
 これと「できる」「できない」は、時にちょっと、時に大きく異なると思います。

これはとても共感するところが多かったです。

重症児の授業づくり
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クリエイツかもがわ

これは教員をめざす人に読んでほしい本。

人間を大切にするしごと―特別支援教育時代の教師・子ども論
クリエーター情報なし
全国障害者問題研究会

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