授業を見る 研究授業の感想から 1

授業を見る 研究授業の感想から 1

 このブログは、ブログ村では一応「特別支援教育」というカテゴリーにも登録していますし、検索でも「特別支援教育 教員 資質」といったキーワードで検索して見てくれている人は定期的にあるのですが、
ここのところ、実際に関連の記事を書くことはほとんどなくなっています。

 というのは、直接現場で子どもたちと接する機会というのが、この4月からは「学校」というくくりでは週に10時間だけと少なくなってしまったということがあります。
 実際は「学校」ではなくて「放課後」ということであれば、別に子どもらと接する機会はもっとあるのですが。

 で、自分自身が中心的な役割を担って授業づくりをする機会というのがほとんどないのです。

 なので、昔のあれこれを引っ張り出せば書くことはあるのですが、リアルタイム的には書くような内容が少ないのですね。

 そんな中でも、最近、研究授業として行われた授業を指導案からじっくりと見させてもらう機会がありました。

 以下はその時に書いた感想の一部です。個別の事例なので、一部、表現や内容をかえているところがありますが、趣旨はそのままです。

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1.生徒自身が興味が持てる活動、教材を取り入れ、授業の回数を重ねる中で生徒自身が見通しを持ち、
落ち着いて授業に取り組めるようになってきている。
全体のねらい、個々の生徒のねらいも適切だと思うが、個々の生徒のより具体的重点的ねらいを明確にし、
それに沿ったはたらきかけや配慮の工夫をしたい→これはこの授業だけに限ったことではなく、今後の授業でも同様、
また「朝の会」や「個別学習」、自由あそび的な時間など、日常の通常の日課の中で繰り返される取組についても同
様である。

最初の計画どおりでなく、実際にすすめていく中で、あれこれ変更していってもよいが、とりあえず、一定期間、
例えば10時間とか取り組む単元の授業であれば、単元全体の指導計画を考えておき、授業の力点の置き方も一定考え
ておくのがよいだろう。

2.全体として指導者が落ち着いて授業をすすめることができており、見せる場面も丁寧に見せようとする意識、意図が感じられる。
それぞれのキャラクターに合わせた服装や雰囲気づくりがなされており、生徒もそれを理解して取り組めている。

3.個々の生徒の実態とか変わって
よくも悪くも、特定の生徒の言動がクラス全体の授業、雰囲気に大きく影響する。
活発で意欲的に活動に参加できていれば、それに引っ張られて楽しい雰囲気もでき、全体も盛り上がる。
異常に盛り上がりすぎたり、自分の思いと違っておこっていたりすると、それで他の生徒が意気消沈する場合もある。
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いつも言っているようなことしか書いていないですが・・・。

まず、「興味・関心」とか「見通し」というあたりです。
ここらは授業づくりの基本になるところで、また、ねらいとしても大事にされるべきところだと思います。
「見通し」「つもり」「イメージ」「期待感」、こうした言葉で表現される、いわば「認識」の力、言い換えれば「わかる」力というのは、
ほとんどの授業の中でねらいの中心的な部分として大事にすべきところでしょう。

授業のねらいの文章の文末はどうなっていますか。
「~できる。」でしょうか?。「~がわかる。」でしょうか。
「わかる」と「できる」というのは同じでしょうか、違うのでしょうか。
「わかる」というのは意味の理解ですよね。「そういうことか」「こういうことだな」。

「できる」というのは、具体的な現象面、目に見える何かができるという場合が多いですよね。
「わかる」から「できる」の?。「できた」ら「わかった」の?。わからなくても「できた」っていうことはあるのか、ないのか?。

禅問答ではなくて、子どもらの具体的な活動、状況に対応して、このことは考えておきたいです。

「楽しむ」はどうですか?。「楽しむ」はねらいになるんでしょうか、ならないんでしょうか。
「楽しむ」ということの意味はなんでしょう。「楽しむ」は「わかる」と関係があるのでしょうか、ないんでしょうか。
当然、ありそうですね。

というようなあたり、授業のねらいとしてまず何を設定するのか、何を大事にするのか、ここがあいまいになっていると、
多くの場合、授業そのものも、あいまいになってくるように思います。

つづくよ。

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