「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 1

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「希望でみちびく科学」三木裕和を読む 1

 楽天から本が届きました。順番に読んでみます。

1 発達的に子どもを理解する

 やはり、どういう視点で子どもを見るかというのは決定的に重要なんだなとあらためて思います。

 ここでは「できない」ことについて注目し、具体的事例もあげながら、その意味について述べています。

 これは後からも本書の中で出てくるのですが、近年、子どもらを評価する際に「できた」か「できない」か、できていれば○でできなければ☓、そんな単純な「評価まがい」の風潮がなきにしもあらずというのは、私自身も感じることがあります。そもそも、まず、目標がこれ(できた、できない)に沿ったものでなければならない、目標は客観的でなければならない、とされたりする。
 前にちょっと書きましたが、「できた」「できない」というよりも、「わかった」か「わかってない」かということの方が本質なのではないかなぁ?。その結果、表にあらわれることが「できた」「できない」ということになるのでは?、と思ったりしますが。

 ウィキペディアで「評価」を検索してみると、まず最初に「物事・性質・能力などの良し悪しや美醜などを調べて価値を定めること」と出てきます。まあ、この文章の表現が適切なものであるかどうかはとりあえずおいといて、これによれば「価値を定めること」が評価なんだと。

 だから、単純に「できた」「できない」を○☓で判断、判定することは、やはりこれは評価の本質からはずれてるんじゃないかなぁと思います。いや、評価する内容によってはそれでいい場合ももちろんあるでしょうけど。
少なくとも「障害児教育」の現場においては、はずれてると思います。

 「できた」→それはどういうでき方なのかなぁ。すぐにできたのかなぁ。何度かトライして、適切な援助かあったからできたのかなぁ。その中で、なにがわかったのかな。わかってないけど、現象面的にはできたように見えるということはないだろうか。
 「できない」→どうできてないのかなぁ?。どこでつまづいているのか。そもそも、課題なりねらいがこの子に合っていたのだろうか。どこかボトルネックになっているところがあるからできないのか。それは、なにかが「わかれば」できるようになるのか。

 そういう吟味、それも一人の担当の教員がいわば独断的に判断を下すのではなく、集団的に、少なくとも直接、その指導の場面に一緒にいた教職員集団での論議を経た上で、評価を考えていくというのが重要なんで。

 ここでは子どもの事例が写真も含めて生き生きと語られています。やはり、こういう内容はいいなぁと思います。

 次の2章でも、子どもの様子が紹介されています。小学部に入学した子の変化・発達の姿を整理したものですが、この時期というのは、子どもは確かに激的に変わることがありますね。それは、まあ、当然といえば当然で、それまでの環境、生活が一変し、新しい文化に触れるわけですから。
 この時期の子どもの様子というのをしっかり記録しておいて整理するというのはとても大事だろうなぁとあらためて思いました。

 私自身、初めて養護学校に勤めた時に小学部に入学した子を担当させてもらい(まこりん)、その子に随分救われたことがあったのですが、当時は自分の方が子どもを見る視点というのがしっかり持てていなかったなぁというのを当時(25年ぐらい前)のレポートを見ていて思いました。

つづくよー。

 

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